「自律し連帯する市民としての大人像」(『現代社会における大人の意味』所収)原稿了99/8/2
 宮原さんの明晰な問題提起を受けて、二つのことがポイントなのだと改めて気づかされました。それが自律と連帯です。ふりかえってみると、当日のシンポジウムで私たちは、この二つの軸に沿って語り合っていたと思うのです。たとえば宮台さんの議論は、内発的な規範に基づく「自律した大人」像に光りを当てる試みでした。一方、吉岡さんは、公共空間や公共意識の重要性を語るなかで、「連帯する大人」像を描いてみせました。大人は自律し、連帯する。それこそ、市民社会における市民像だ。お二人の議論から触発されて、そんなことを考えました。
 ところで、私はあの夏のシンポジウムの後、阪神・淡路大震災の被災者に対する大規模な社会調査のプロジェクトに関わることになりました。質問紙の設計を進めるなかで、震災とはある種のゆらぎを被災地全体にもたらした。その結果、自律や連帯に根ざした市民意識−それを「市民力」ということばで呼ぼうと思います−が高まった。そんな仮説を確かめてみたくなりました。ここでは、大規模調査に先立って行ったパイロット調査の結果をもとに、この仮説を最後に検討してみようと思います。


自律する大人像

 宮台真司さんは二種類の大人像が考えられると発言しました。一つは、共同体への帰属を完成し、自己をより大きなものと一体化することを通じて自分に対する尊厳を獲得するタイプの大人像です。もう一つは、自己に固有の経験や試行錯誤を通じて、自分に対する尊厳を獲得するタイプの大人像です。これを私なりに言い替えると、大人ということばには、「外的規範への同調を通じた自己の確立」か、「内発的自律による自己の確立」かのイメージの対立軸がある、ということです。
 外的規範への同調は、タテマエ主義であり、お説教くさく、自己の確立は他者評価(監視装置)を常に必要とする。それは、柳原桂子さんの言う「バリバリがんばる族」コースの生き方でもあるでしょう。それに対して、内発的自律は確信犯的で、他者評価を必要としない。その意味では、ある種「フリーク」な生き方も含まれるかもしれません。
 ただ、私は思うのですが、「フリーク」以外の戦略もあり得るのではないか。それが、内発的自律の理想として「中庸」(柳原さんのいう「そこそこ」コース)をかかげる戦略です。欲しいものがあるからと言って欲張らず、無いと言って落胆せず、幸運が続くからと言って楽観しすぎず、不運が続くからと言って悲観しない。それは、宮原浩二郎さんが言うように「美的な」生き方にも通じるだろう。そういえば少し前までの大人たちは、「貪らざるを以て宝となす」や「外物にわずらわされることなし」といった『菜根譚』が説く人生訓に大いに共感していたものです。私には「フリーク」よりも、むしろこの「中庸」という内発的な自律戦略の方が、「大人げ」のある態度に思えるのです。

 シンポジウム当日の私の発言も中庸さにつながるものでした。母と子のやりきれないくらい「大人げのない」ふるまいには、むしろ明快な秩序が見られました。とはいえ、完全に不確定なふるまいも「大人げ」があるとは思えません。ゆらぎの全く存在しない秩序世界でもなく、かといって不確定すぎるカオスでもない、その中間領域で自己組織的に創発されるが「大人げ」のあるふるまいだ、と述べたのでした。

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図1 挿入
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 図1は、複雑系研究で有名なサンタフェ研究所から入手したシミュレーション・プログラムの結果です。上段は、系が秩序状態にあるときのふるまいです。無秩序さ(エントロピー)が低く、しかも系のふるまいが一様であること(分散が低いこと)が示されています。これに対して、下段はカオス系のふるまいで、高エントロピーと、やはりふるまいの一様さ(低分散)が特徴です。サンタフェ研究所の研究員たちは、秩序とカオスの間で、系が独特のとても美しいふるまい(高分散)をかいま見せる瞬間があることを発見し、その瞬間を「カオスの縁」と名づけました。中段が、その際の系(複雑系)のふるまいです。秩序のなかにゆらぎを見るような、ゆらぎのなかに秩序を見るような、危ういバランスが感じられます。フィッシャーのだまし絵の世界です。しかも、そのふるまいが、とても単純な内発的なルールによって描かれているところに妙味があります。内発的な、そしてシンプルなルールによって系が律されながら、とても豊かなふるまいが創発される。カオスの縁は「大人」のメタファーなのです。
 

連帯する大人像

 「フリーク」も「中庸」も、内発的(確信犯的)な自律戦略ではある。けれども、両者には明快な違いがある。そのことを整理するには、吉岡忍さんの「公共空間」の議論が参考になります。公共空間の存立は、身内を離れて、未知なる他者との間に連帯や協調を培えるかにかかっている。吉岡さんの議論には、大人ということばに、もう一つのイメージの対立軸があることを示唆します。「連帯や協調」対「非連帯や自分本位」という対立軸です。この2本目の対立軸を使えば、「フリーク」と「中庸な大人」という戦略の違いが明快になります(表1参照)。

 表1は、大人を考えるときに、縦軸として「外的規範への同調」か「内発的自律」か、を区別しています。一方、横軸では「連帯・協調」か「非連帯・自分本位」か、を分けています。そうすると、「フリーク」は「内発的自律」に基づく「非連帯・自分本位」戦略であって、「内発的自律」と「連帯・協調」に基づく「大人」戦略とは、区別されます。
 

表1:大人を規定する自律と連帯の二軸
 

 

連帯・協調 非連帯・自分本位
外的規範への同調 共同体への帰属・「バリバリがんばる族」・タテマエ主義 わがまま
内発的自律 自律に根ざした連帯・「そこそこ」・美的な生き方・市民社会の市民像・「大人」 確信犯的ホンネ主義・フリーク


 身内への執着から脱して、未知の他者でもとりあえず信頼してみる勇気を持つ。そして、他者との連帯や協調を模索するのが大人の生き方です。しかも、それは自律的で、中庸(そこそこ)さを旨とする自己決定原理に根ざしている。自律と連帯という二つの軸を用いることで大人のイメージが、このように明快になります。
 

市民としての大人像
 本書の第一部は、関西学院大学で開かれた公開シンポジウムの模様を収録したものです。その関西学院大学は阪神大震災で、十五名の学生をふくむ六十四人の学校関係者が犠牲となりました。震災は、確かに私たちから多くのものを奪いました。けれども、その震災を期に新たに生まれたものもあります。震災のあった一月から三月の末までで百三十万人にも上ると推定される多くのボランティアたちの動きがそれです。関西学院でも、救援ボランティア委員会が組織され、三月末までに延べ七千五百名をこえる学生たちが救援ボランティアとして活動しました。

 その当時、救援ボランティアの学生たちの顔は活き活きと輝いていました。ボランティアの組織化やマネジメントに、当初から深く関わっていた私は、その最初の一ヶ月間をふりかえって、「精神の解放区が関西学院救援ボランティア委員会に現出した」と書いているほどです。

 何が学生たちを突き動かしたのでしょうか。ボランティアの受付にやってくる学生たちのほとんどの答えは、「これだけたくさんの人達が亡くなっているのに、家でこたつに入ってテレビなんか見ていられない」というものでした。それは、被災者に対する内発的な共感に基づく行動でした。

 ほとんどが初めてのボランティア。その彼らに受付で話したのは、「なんでもやりますから言ってください」とは決して現場で言うな、ということでした。私たちの普段の生活は、「言われたらする」世界です。でもそれは「言われないとしない」ということと同じです。「言われなくてもする」のがボランティア。でも、始めたら続けることが大切。それだけを言って学生たちを送り出しました。被災地では「自己完結的ボランティア」という言葉さえ後に生まれました。自らの行動は自らが律する。ボランティアは基本的に誰かの世話にはならない。それが被災地でボランティアする時の鉄則になっていきました。

 活動を繰り返しているうちに、学生たちの顔はさらに一層真剣さを増していきました。ピーク時には、三交代の二十四時間体制で十四の避難所を、学生たちはサポートしていました。そして気がつくと、彼らは避難所という小社会を運営する当事者になっていたのです。避難者同士のトラブルの裁定や生活のルールづくり、子どもたちのグループづくりなどに直接関わるようになっていました。社会のしくみやきまりなど、自分から縁遠いところで決まっているのだと感じていた学生たちは、避難所運営に参画するなかで、当事者意識を芽生えさせていきました。「きまりやしくみといっても、人間が作ったものだ。ならば、同じ人間の手で変えていくことができる。」これが、彼らの生な実感でした。

 学生たちは、被災者への内発的な共感の感情に根ざしてアクションを起こしました。同時に避難所の運営に参画するなかで、会議や交渉を通じて関係者と協調して物事を解決する体験を深めました。内発的な共感や自律意識に根ざした連帯や協調を模索し、その過程で一回りも二回りも大人になっていったのです。

 震災からの数週間、被災地のインフラは麻痺し、米国の西部開拓時代さながらの様相を呈しました。その阪神間で、内発的な自律意識をもちながら他者と連帯することは、ボランティアの学生だけに限らず、多くの被災者にも共通の体験となりました。自分のことは自分で決める。自分のまわりの困ったことは、行政に頼るのではなく、みんなで相談して解決する。被災地という辺境を自分だけで生き抜くことは大変でした。その時、人と人とのつながりが生き延びることをいかにたやすくするかを人々は学んだのです。

 救援ボランティア委員会に関わった教員の手で、震災の年の四月から「ボランティアと社会的ネットワーク」という講義科目を新設し、その運営に関わるようになりました。教員自身も、その多くが初めてのボランティア体験でした。その体験の意味を、神学や、教育や福祉や政治や経済の言葉でもう一度考え直したい。それが講義を始めるきっかでした。西洋政治思想を研究する同僚の岡本仁宏さんは、この講義のなかで「公共性は行政だけに独占させるのではなく、市民の側からもその紡ぎだしに参画できる」と発言しました。経済学者の小西砂千夫さんは、「公共性」対「私的利益」の対立軸と、「行政」対「民間」の対立軸が震災を期に二元化したのだと説きました(図2参照)。これは、公共性を全て政府の責任とし、民間は私的利益の追求だけに専心していればよいと考えていた震災までの公共性観(図3参照)から大きくパラダイム転換するものでした。このようにして、ボランティアとは「市民が公共性を紡ぎだす活動である」という、われわれなりの論理が組み立てられていきました。
図2:ボランティアが占める領域   図3:震災までの公共性観
 阪神大震災が戦後五十年目に起こったことは象徴的です。戦後五十年間の体制観こそ、図3で示したような公共性を政府が全て独占するというものでした。とても当たり前に思える、従って極めて強固な思いこみです。ここで再び複雑系の話しにもどるなら、震災はこのように安定していた戦後五十年体制の現実感にある種のゆらぎを与えたのではないか。カオス系のふるまいは、往々にして馬の背にのせるサドルの形(図4)になります。馬の頭から尾の間を前後に振動している際には、系の振る舞いは安定しています。しかし、安定と不安定が交差する特異点で、ちょうどそれと直角の方向にパルスが加えられると、馬の背からけ落とされて系にはゆらぎが立ち現れます。その時、人々は「カオスの縁」を一瞬かいま見た。そして、行政だけが公共性を独占するのではない、という夏の青空のように突き抜けた感覚を共有した。同じような趣旨の発言を、神戸市の市民活動推進課の森田拓也さんから聞いたこともあります。ちなみに、複雑系のシミュレーション・ソフト(図1参照)も森田さんから拝借したものです。


図4:カオス制御の概念 挿入


震災は市民力を高めた

 震災時の救援ボランティア活動の高まりによって、ボランティアや民間非営利団体(NPO)の活動に光が当たりました。そして震災後もさまざまなNPO団体が被災地で活動を続けてきました。そのような追い風を受けて、一九九八年三月にはNPOに対して法人格を与える特定非営利活動促進法(NPO法)も成立しました。その背景には、公共性を行政だけに独占させておくのではなく、市民も公共性のつむぎ出しに関与してもよいし、むしろ積極的に関与するべきだ、という被災地での実感が後押ししたと思います。
 右に述べてきたことは、一つの仮説なのですが、私は社会調査によってその直感を確かめる機会に恵まれました。関西学院での公開シンポジウムの終わった秋口に、兵庫県震災記念協会の委嘱をうけて京都大学防災研究所が、「震災後の居住地の変化とくらしの実情に関する調査」を実施することになり、同研究所の林春男教授と私が共同で調査・分析を担当することになりました。
 ここでは、一九九九年三月の本調査に先だって一月下旬から二月初旬に行ったパイロット調査の結果についてお話します。三月の本調査は郵送調査でしたが、パイロット調査はサンプル数こそ少ないものの(二〇〇世帯)、訪問員が直接回答者宅を訪問して質問紙を留置し、後日回収に回る方法をとりました(一部は郵送回収)。通常の郵送調査の有効回答率は三割程度なのですが、訪問調査である今回のパイロット調査の有効回答率は実に七割に近い(百三十九世帯、六十九・五%)ものでした。そのため極めて精度の高い標本調査となりました。調査地域としては、兵庫県南部で震度七を記録し、震災時水道・ガスが二ヶ月以上停止した一帯から二十地点を選びました。各地点ごとに住民票をもとに無作為で十世帯を選び、その世帯主を調査員が訪問しました。調査地点は以下の市区にまたがっています。

神戸市(長田区、兵庫区、中央区、灘区、東灘区、北区、垂水区、須磨区)
芦屋市、西宮市、川西市、宝塚市、明石市

 回答した世帯主の年齢は、二十代・三十代が十八名(十二・九%)、四十代・五十代が六七名(四十八・二%)、六十代以上は五十四名(三八・八%)です。性別は男性が一一七名(八四・二%)、女性が二二名(一五・八%)でした。回答を世帯主にお願いしたために男性の中高年層が大半を占めるサンプルとなっています。
 この調査にあたって林春男さんと私は、震災によって阪神間の市民の市民意識が高まったという仮説を是非検証したいと考えました。そこで、市民性を測るためのものさし(質問紙尺度)を用意しました。これは、自律と連帯という二つの得点を測るようになっていて、例えば表2に示した質問について一から三のいずれかの選択肢を選ぶようになっています。なお、*印のついているものが自律・連帯方向の選択肢です(表2参照)。
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表 2 参 照
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 表3は、自律、連帯それぞれについて、現在と震災前の自己評価をしてもらい、それぞれの得点の差を調べた結果です。図5と図6は、その結果を棒グラフ(棒上部のひげは標準誤差)にして表したものです。それによると、自律・連帯のそれぞれについて、震災前後の得点差には、統計的に意味のある違いが認められました。阪神間の市民は、被災後の混乱の中で自律と連帯に根ざした市民性に目覚め、この地域の市民力は確実に高まっていたのです。

表3:震災前後の市民性(自律と連帯)の平均値の差の検定
 

項目

現在の平均得点(標準偏差)
震災前の平均得点(標準偏差)
震災前・後の

得点差の平均

得点差の平均値の標準誤差
t値
自律
2.396(2.006)
2.014(2.007)
.381
.106
3.587**
連帯
3.137(1.603)
2.842(1.737)
.295
.107
2.749

N=139 *P <.05(両側検定) *** P<.005 (両側検定)

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図5・図6挿入
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 震災からもうすぐ五年になろうとしています。最近被災地では、今までの震災復興施策の検証作業が盛んに行われ始めています。例えば神戸市は、九九年の夏に、震災復興の検証を市民自らの手で進めるワークショップ形式の草の根検証会議を市内各地で開催しました。一般神戸市民と併せて、今でも被災地で支援に走り回っているNPO団体のリーダーとの草の根検証ワークショップも何度か開かれ、その会合の一つには私も参加しました。その時に、あるリーダーが自分たちの支援活動とは、「あんた(被災者)が、ちゃんとできるようになるために、アタシらが手伝ってんねん」と総括してくれたことが、とても鮮明な印象として残っています。

 「あんたがちゃんとできるようになる」という明快なイメージの共有が、「わたしは、ボランティアとして何をするのか」に確信と力を与える。しかも、その自律イメージを両者が共有することによって、支援者と被災者の間に対等で相互的なつながり(連帯のパートナーシップ)が生まれる。市民が当たり前にそんなことを話しあう阪神間の市民文化に、私は改めて脱帽させられました。

【参考文献】

Comfort, L.K. (1999). Shared Risk: Complex Systems in Seismic Response. NY: Pergamon.

林春男・立木茂雄(1999).「震災後の居住地の変化と暮らしの実情に関する調査」調査結果報告書(要約編)京都大学防災研究所

鎌田茂雄著(1997).『菜根譚 中国の人生訓に学ぶ』NHKライブラリー 50,日本放送出版協会.

立木茂雄(1995)「問題維持連鎖とシステム家族療法」『数理科学−特集生命とカオス』No. 381, 60-66.

立木茂雄編著(1997).『ボランティアと市民社会−公共性は市民が紡ぎ出す』晃洋書房

山岸俊男(1998)『信頼の構造−こころと社会の進化ゲーム』東京大学出版会.

吉岡忍(1999)「友が丘中学少年Aが残した傷」『文芸春秋』1999年8月号, 300-312.



表2:市民性尺度項目
自律項目
C)
しあわせなことが立て続けに起こると、
1. ずっとこの幸運が続いて欲しいと思う。 
2. この幸運に酔ってはいけないと、心を引き締める。 
3. 上のどちらとも言えない。 
K)
欲しいものについて
1.人から欲ばりと言われようとも、欲しい物は手に入れる方だ。
2.たとえ欲しいものがあっても、他人からひんしゅくを買うような行いは、つつしむ方だ
3.上のどちらでもない。
O)
街を歩いていて不快な目にあったら、
1. イライラせずに気持ちを抑えようとする方だ
2. はっきりと注意する方だ。
3. 上のどちらとも言えない。
T)
自分の欲求について、
1. 自分の欲求には忠実であるべきだ。
2. 自分の欲求をかなえるときも、バランス感覚が大切だ
3. 上のどちらとも言えない。
U)
身のまわりのことには、
1. 無頓着な方だ。
2. ある程度気を使う方だ
3. 上のどちらとも言えない。
連帯項目

D)
わたしは、
1. いつ子どもに見られても、誇れる自分がある。 
2. 私の日頃の行いは、できれば子どもに見せたくない。 
3. 上のどちらとも言えない。 
 
I)
地域のみんなが困っていることがある時、
 
1.みんなが困っていることなら、みんなで考えることで解決の糸口が見えると思う
 
2.みんなが困っていることでも、誰かがうまく解決してくれると思う。
 
3.上のどちらとも言えない。
 
L)
自分の行いの結果、
 
1. 何かまずいことが起こったら、他人のせいにする方だ。
 
2. 何かまずいことが起こったら、その責任は自分で負う方だ
 
3. 上のどちらとも言えない。
 
M)
講演会や地域の集まりに参加したとき、
 
1. 友だちとついおしゃべりに夢中になって、話しを聞かないことがある。 
 
2. 話し手に耳を傾けるのが礼儀だと思う。 
 
3. 上のどちらとも言えない。 
 
Q)
わたしは、
 
1. 用事があっても、近所の人には、自分から話しかけたりはしない方だ。
 
2. 用事があれば、近所の人にも、自分からきっかけを作って話しかける方だ
 
3. 上のどちらとも言えない。